黒井千次 『失うべき日』(集英社文庫)

これほど好みの作家を今まで知らずにいたのはなんたる不覚か、と思った一冊。あまりに好みであるが故に、表題作で、全体の半分を占める中編『失うべき日』以外の四編は、タイトルと冒頭の数行を読んだだけで、「ああ、成る程」と安易に諒解出来てしまえたほどで、好みではあるものの若干物足りなく思えてしまったのだけれど、さすがに表題作となっている『失うべき日』は別で、ベビーぶとんの切れ端である「クタクタ」の失踪に端を発する奇妙な出来事の連なり具合はそう複雑なものでないにもかかわらず、迷路をさまような不思議な感覚があって、とても楽しく読めた。「奇妙」とか「不思議」とか、そんな言葉を今使ったのだけれど、その「奇妙さ」「不思議さ」は、ごく抑え目なもので、日常の中で、誰しも感じ得るであろう些細な違和感といったものがほんの少し増幅されたものに過ぎず、うまくいえないのだけれど、日常のすぐ内側にある非日常が、ほんのわずかばかりじわりと染み出してくるといったような、そんな風なのだった。

黒井千次の一貫したテーマなのか、たまたまこの本がそうなのかはわからないのだけれど、少なくともここに収められた五編は、どれも「不在」がテーマとなっていた。「不在」とは、始めから何もないのとは違って、在るものがなくなった状態であり、「不在」を描き出そうとすることは、そこに在ったものの外側を少しづつかたどっていくということで、つまり「不在」を描くということは、在るものがそこにないにも関わらず、在るものをも(かならずしも明確でないにせよ)描くということになって、そういったことが僕はたまらなく好きなのだ。

『失うべき日』で失踪する「タクタク」は、主人公の三歳の娘が、眠る時に握りしめるベビーぶとんんの切れ端なのだけれど、そういえば僕も同じようなものを夜握りしめていた。僕の場合は「ネンネチンのタオル」あるいは単に「ネンネチン」と呼ばれていた。一体いつごろから「ネンネチン」を用いるようになって、一体いつまで「ネンネチン」を必要としていたのか(あるいはとりあげられたのか)、はたまた、「ネンネチン」も「タクタク」のように失踪してしまったのか。それはなにか当然のようにはっきりとしないのだった。