押井守監督 『立喰師列伝』

大阪梅田のHEPナビオ8階。『クレヨンしんちゃん』や『ナルニア国物語』を観にきたであろう大勢の家族連れの中に混じる一目でそれと知れる異様な風体の男たちは休日の賑わいにいかにも不釣合いで、死んだ魚のような目をして館内のあちらこちらにひっそりと佇んでいた。彼らに密かなシンパシーを送りながら、一先ずチケットを手にいれると、上映の時間まで少し間があったから、空腹を満たすべく一旦劇場を出る。あいにくの雨がちらつく梅田の街はやけに寒く、もう四月も半ばなのだからと、軽装で出てきたことを少し後悔する。立喰蕎麦屋でもあればと、阪急東通商店街に向かう途中、「はらたま」ならぬ「松屋」があったので、這入ることにした。
牛めし並を注文し、熱い茶を啜りながら、飼育に手間暇がかかり、本来ハレの日の食い物であるはずの牛肉を安価に喰らうことの出来る牛丼屋やこそ、いや、今この手にしている丼こそ、世界の中心なのではないのか。そんなことを夢想しながら牛丼屋に通った日々のことを思い出す。久しぶりに眼前に出された丼はしかし、飯の量に対して、明らかに肉の量が少なく、さもしいほどだったのだけれど、珍しく彼国に対して「No!」といった結果がこれなのであり、もとより立喰いのプロならざる身にあっては垂れる講釈の一つも持ち合わせてはおらず、いや、そもそも「松屋」は食券制なのだ。黙って食券を差し出し、黙って喰らい、「ごっそうさん。美味かったぜ」などという台詞はけして口にせず黙って出て行くべき店なのだ。何か空々しい気持がして、空になった丼を見つめてみるものの、米粒がひと粒ふた粒残っているほかは当然何もありはしない。その残った米粒を丁寧に箸でつまんで口に運んでから、昼時で右往左往し始めた店員を尻目に黙って店を出た。外ではあいかわらず雨がちらちらと降っていて、ビルの隙間からどんよりと曇った空が見えている。

劇場に戻ると、着ぐるみの「しんちゃん」が子供たちに取り囲まれており、ひどく騒がしかった。自分らと同じ年頃であるはずの「しんちゃん」が、えらく巨大になっていることなどおかまいなく、子供らは親が向けるカメラにピースサインを突き出していた。あるいはその「しんちゃん」が着ぐるみであることなどはなから承知で、「アニメのしんちゃんが実際にいるわけないじゃない。ま、親に対する一種のサービスかな。親なんて無邪気なもんさ」くらい云うかもしれない。
目指すスクリーンは隔離されたかのように九階にあって、賑やかな館内の片隅にひっそりとある階段を上っていく幾人かの男の背が見えた。彼らに続いて、階段を上っていくと、いくつかのベンチが置かれただけのそこは、階下の喧騒とは無縁の、いかにもそれらしき雰囲気に覆われていて一種異様ですらあり、踏み入れるとほぼ同時に、係員が「お待たせしました」と扉を開けまったきの暗闇をのぞかせた。男たちはふらりと幽鬼の如く立ち上がると、一人一人扉の向うに吸い込まれていく。
座席に坐る男たちは、休日の昼間がいかにも不釣合いなものたちばかりで、思わず隣りに坐った男に、「月見の銀二が天本英世でないのが残念でなりませんね」などと声をかけたくなるが、こんな映画を好き好んで見にくる男とかかわったところで、ロクなことがあるはずがないし、スクリーンとの孤独な対話とディスコミュニケーションを求め集ったものたちに、安易なシンパシーを表明することほど無用なこともない。そんなことを思いながら黙って坐っていると、すこしあわてたように誰か這入ってきて、ちらりと見遣ると、まだ年端も行かぬ、おそらくは十代の半ばほどの少年だった。嗚呼、こんな少年が何故、と寸刻思ったのだけれど、彼が羽織ったジャンパーには紛れもない「DOG」の三文字が白く刻印されていたのだった。


などと何故だか斯様な前書きなんぞ長々と書いてしまうわけなのだけれど、迂遠な物言いを避け、直截に述べてしまうと、映画『立喰師列伝』は生粋の押井ファン以外にとっては冗漫で衒学的な退屈な映画に過ぎず、それこそ実在的思索をうながす契機になる程の冗長さで、「ああ、『イノセンス』の監督の新作なのか。ちょっと見てみようか」と安易な気持で観にきた客にとっては(『イノセンス』を実際に見たものなら、そんな安易な気持は持たないと思うが)、悶絶失神必死の映画であり、悪い夢そのものである。しかし筋金入りの押井ファンにしてみても、原作となった同名の『立喰師列伝』ほとんどそのままであるこの映画は少々物足りないものであるかもしれない。最も幸福な観客だったのは、何故だか原作『立喰師列伝』を読んでいない押井ファンだったろう。そんな人間がはたしていたかどうかは疑問ではあるけれど。とはいってもこの映画はかつて「立喰いにこだわり過ぎると身を滅ぼす」とまで云われた立喰いのプロの映画なのであり、これ以上ないぐらい押井守そのものであるのは確かで、これを観ずば、オシイスト失格というよりほかなく、この映画を撮るために押井守の演出家人生はあったと云ってもけして過言ではないのだ(多分)。しかしこんな映画を撮ってしまったとあっては、押井守はもう純然たる犬の映画を撮るしかないのではないだろうか。

立喰師列伝

立喰師列伝


おまけ
http://www.dimetea.org/cinema/innocence.html