横山やすし

古井由吉『火男』(『夜明けの家』講談社)に

年の頃は四十前後か、背はひょろりと長くて、頬はこけて髭の剃り跡の青々とした顔に大きな眼鏡を掛け、喧嘩早くて事件をのべつ起すが酒乱の相ながらに飄逸の才捨てがたい関西の漫才師を想わせる風貌の主が、柱につかまって一人でこの世の末のごとく踉(よろ)け惑うのを、私はカウンターの前から腰をひねって、高い止まり木はかえって振動を吸収してしまうものか、あれは何事かとばかりに、呆気に取られて眺めていた。

とあって、この「飄逸の才捨てがたい関西の漫才師」とは、まず間違いなく横山やすしのことであり、ちょうど前日に横山やすしのことを少し考えていたりしたので、その為にこの一文が表れたような気がして、少しはっとした。
横山やすしが肝硬変で亡くなった際に運び込まれた病院が、実家のすぐ近くにあり、一日騒がしかったのを覚えている。出生地は異なるものの、横山やすしは僕の地元に長らく住んでいて、地元の一番の有名人といえば横山やすしだった。いい噂も悪い噂も聞いた。僕がものごころがついた頃にはすでにやすきよは活動停止状態にあったので、やすきよの漫才を見たのは主に横山やすしの死後のことである。
この『火男』が『群像』に発表されたのが、一九九七年三月とあるから、このときすでに横山やすしは死んでいる。話のなかで、この横山やすしに似た男は端役のバーテンターに過ぎないのに、主要人物よりよほどくっきり思い浮かんできて、変におかしかった。