キャベツ畑でつかまえて

キャベツを一枚一枚剥いていて、ふとキャベツの形が脳味噌に似ていることに気づき、なんだか脳味噌を一枚一枚剥がしているような気分になってしまって、なんとも気持ち悪かった。
今日のこととは多少違うことだが、想像力の働きようによっては、料理はとても残酷なことで、基本的に死体を材料にしてるわけだし、場合によっては生きたまま料理する場合もある。魚を生のままさばく機会はほとんどないが、貝などは生きているのを使うことが多い。肉なんかは食材として手元にある時点で既に切り分けられた死体だが、野菜はどの時点をもって死体とするか難しい。例えば包丁で切り分けてしまっても、ニンジンやダイコンなどはヘタを水栽培して茎や葉を再び食材にすることが出来るし、ネギも根を残しておいて植えておけば、キリがないように思えるほど再利用できる。
ふと、植物人間という言葉が思い浮かんで、切り落とされた頭部を水栽培したり、足を植えて、そこから胴が生えてきたり、そんなことが頭を過ぎったりした。目を植えておいたらそこから芽が出てきたってのはなんだか落語でありそうで、切りとったカモの足から芽が出て、これがホントのカモメ、なんてのは実際に落語にある。小学校のころに、この噺*1を漫才にアレンジして、披露したことがあって、他にも落語から翻案したり、オリジナルのネタをつくったりしていた。関西の学校では、クラスに一人は必ずいる「吉本に行け!」といわれる子どもだったはずなのに、いつのまにか笑いのセンスなんかまるでなくなってしまって、昨今のお笑いブームに乗り損ねてしまった。あのまま笑いのセンスを研いておれば、今頃フジワラノリカと結婚出来ていたかもしれないと思うと、フジワラノリカに懸想していたわけでもないのに、なんだか悔しい。
キャベツの話だったのが、なんだか妙なほうに脱線してしまった。あるいは知らず知らずのうちに自分の脳味噌ひん剥いて、味噌汁にでもしてしまっているのかもしれない。詰め直すとすれば、やはり赤味噌だろうか。それともキャベツを入れとくべきだろうか。

*1:『鉄砲勇助』