藤枝静男対談集 『作家の姿勢』(作品社)

小川国夫の解説などで知ってはいたけれど、藤枝静男は実によく喋る。やはり平野謙本多秋五の二人と対談しているのが楽しそうで、平野は男前でよくモテて、おれはぜんぜん駄目だった、と何度も繰り返しているのが楽しい。


阿部昭との対談中に、藤枝静男の小説観がよく出ていると思える発言があるので、メモも兼ねて少々長くなるのだけれど、以下に引用する。

私小説はだめだとかなんとか言うのに、なにを言ってやがるとなぜ思うかというと、いったいいま、拠るべき、信用すべき、あるいは正しい現実、普遍的現実というものはあるかどうか、ちょっと聞きたいね。ちょっと見渡したところで、そんなものないですよ。昔はあったかもわからないですよね。いまは自分が周りを見渡しみると、普遍的現実なんていうものはどこにもなくて、自分の一人だけの現実があるきりだよね。だからまるで万国共通、東西普遍の現実というものがあって、人間生活というものがあって、そういうものを書くのがほんとうの小説で、自分のことばかり書くのはそんなものは私小説で取るに足りない、なんていうことを言ってるやつは、自分の周りのことを知らないやつですよ。自分の周りの認識が足りないんであって、好い加減だということですよ。もっと突き詰めて、現代というものを考えてみたら、信用できるのは自分の現実だけじゃないか。信用もしないものをありそうに思って書いたってだめだね。現実を書くなら、いまある自分の現実を書くしかないじゃないか。私小説というと、女にあれしてだまされたとか、ひっかけたとか、いまはそういうものじゃないだろう、と思うね。ところが自分の現実というのだってね、ほんとう言うとわからないんですよ。考えてみるとね。思っていることはほんとうかうそかわからないしね。しかしわからないじゃ生きていかれないから、自分の思ったことだけは自分を信用してやっていくわけですよ。
『作家の姿勢』より

こういった小説観は藤枝静男の世代の人間よりも下の世代の作家たち(特に内向の世代)と共通する小説観なんでないだろうか、と思う。