筒井康隆 『巨船ベラス・レトラス』(文藝春秋)

珍しく新刊の感想を書くのでこれから読もうという方はご注意を。


作者インタビューによると「ベラス・レトラス」とはスペイン語で文学、あるいは純文学を意味するらしい。帯には「現代日本文学の状況を鋭く衝く戦慄の問題作」とある。なるほど、そうかと思い読み始めた。
老練された技巧は抜群に上手く、読み進めるのになんの苦痛もなかったのだけれども、実験的、前衛的な作品を読むときの知的興奮に乏しく、作中の登場人物同様になんだかもやもやとしてしまった。
錣山兼光はあきらかに筒井康隆自身をモデルとしていて、笹川卯三郎は町田康、根津槍四郎は舞城王太郎かとも思ったけれど、結局のところ雑誌「ベラス・レトラス」の掲載作家たちは、みな立場を同じくしており、何の対立もなく、彼らと対等な立場にある反対者はまるで現れないから、何の議論もない。みな筒井康隆の分身に過ぎないように思う。錣山たち以外に、「俺たちが書いているものこそ文学だ」と思っている作家たちが、文壇の中に必ずいるはずなのに、そういった作家は現れない。某都知事のような人物が戦艦でベラス・レトラス号を追いかけてきて、「俺はこの船のキャプテンであるだけでなく、そっちの船のキャプテンでもあるのだ」とかなんとかいいって、錣山たちと論争しても良さそうなものなのに、そんな展開はまるでなく、評論家たちも隔離されていて、船には乗りこんでこないし、編集者たちも作家たちには逆らわない。作家たちに食ってかかる同人作家たちは、明らかに作家たちより下位に位置づけられている。作中に作者が降臨して、なにをいうかと思えば、自身の作品の盗用問題の告発であって、これはこれで面白く読めるけれど、一読者に過ぎない僕からしてみれば、そんなん知らんがなという程度のことで、ここに至って、「ベラス・レトラス」号=「文学」と読むのは間違いではないか、と思えてきた。
あるいはもしかしたら「ベラス・レトラス」号=「筒井康隆」であって、「現代日本文学の状況を鋭く衝く」気などはなからなく、現代文学の問題を語るとみせかけて、巧妙に自身の愚痴を小説化したのではないか。「ベラス・レトラス」が「文学」を意味するというのは、あくまでも作者インタビューのなかで語っていることで、作中ではスペイン語であるということしか書かれていないから、作中の地の文に嘘はなく、『巨船ベラス・レトラス』というタイトル自体が「ベラス・レトラス」が何を意味するか調べるような読者に対して、「ベラス・レトラス」=「文学」であるという誤認をより一層強めるためのトリックだったのではないか。つまり『巨船ベラス・レトラス』とは文学を「革新的に脱臼させた」ミステリーだったのではないだろうか。そのように思い、いやぁ、見事に騙されてしまったと一時は痛快な気持になったのだけれど、いや、そんなんでええのか? という気持もじわじわと湧いてきて、やっぱりもやもやしてしまう。
しかしそんなもやもやの中にも、作中「錣山先生はお歳を召したのだと思います。一般読者の啓蒙を口実に、過去の実験や冒険をより楽な作業で繰り返そうとなさっています」*1と、筒井康隆自身に一番近いと思われる錣山兼光を批判する村雨澄子の存在が希望としてあるように思う。村雨澄子は、「虚構にしか登場しないような天才」と作中人物の口から評されるように、虚構性のもっとも高い人物で、筒井康隆の理想や良心の具現のようであり、だからこそ愚痴しか言わない作家たちから逃げだして、船首像になってしまうのではないだろうか。これは悲劇ではなく、筒井康隆自身の決意表明のように思える。

巨船ベラス・レトラス

巨船ベラス・レトラス

*1:ちょうど僕もこの『巨船ベラス・レトラス』を読み進めながら同じようなことを感じていた。筒井康隆の作品がもっとも前衛的だったのは1980年代のことであり、それ以降はこの次期の実験を薄く引き延ばして繰り返しているだけではないか、と思う。