フォークナー/平石貴樹 新納卓也訳 『響きと怒り(上)』(岩波文庫)

いやー傑作。上巻だけで十分満足してしまい、下巻はもしかしたらまったくの蛇足なんじゃないだろうか、と思えてしまうほどで、下巻を読み始めるのは数日間を開けてからにしようと思う。
最初の頃こそこのベンジーは何歳の頃のベンジーか、といったことがどうしても気になってしまい混乱するが、読む進めるうちに、すべての年代のベンジーが重なっていって、三歳のベンジーも三十三歳のベンジーもまったく同じベンジーでしかない、というこの多層的な感覚が読んでいて非常に面白かった。対してクエンティンの章ではベンジーの章同様に線的な時間が解体されているにもかかわらず、多層的にならずに、過去も含めて一つのクエンティンという塊になって、放たれた矢のごとく、グングンと進んでいく感覚があり、これもまた面白かった。
この違いは、ベンジーが、過去の記憶の想起に、なんらかのキー(具体的な言葉や場所)を必要とするの対して、クエンティンの想起は、意識の流れの、その流れにそっての想起であるということから生じるのだろう。また、ベンジーが、体験したことをほぼそのまま思い出すのに対して、クエンティンの想起は極めて主観的で、幻想や妄想も入り込んでいる。これはもしかしたら、ベンジーは、プルースト的、クエンティンはジョイス的ということになるんじゃないだろうか。プルーストは読みかけだし、ジョイスはまともに読んだことがないので、なんとなくそんなように思うというだけのことだけど。
クエンティンの章を読んで、中上健次がフォークナーに影響されているというのがよくわかった。実際秋幸とクエンティンはよく似ている。父親との対決に、妹との関係を思想的な武器として用いて、敗北するところなど、ほとんど同じだと思えるくらいに似ているのだが、そこから先の二人の行動には決定的な差異が表れていて、中上健次は秋幸三部作においてフォークナーの乗り越えを企図したのだろうと思う。近いうちに『地の果て 至上の時』を読もう。

響きと怒り (上) (岩波文庫)

響きと怒り (上) (岩波文庫)