マルセル・プルースト/鈴木道彦訳 『失われた時を求めて 1 第一篇 スワン家の方へⅠ』(集英社文庫)

のべ2週間かけて読み終える。これでやっとこさ十三分の一。
もっと過去と現在が複雑に交錯するのかと思っていたのだけれど、それほど複雑さはなく、主に幼年時代のことなので共感することも多く、冗長さもさほど感じなかった。しかし、これから巻が進んで、社交界が重要な舞台となってくると、当時のフランスの社交界にほとんど関心がないので、読めなくなってしまうんじゃないかなという気がしないでもない。
語り手の内面から、主観的(時に他人の内面にすらやすやすと踏み込んでいる)に世界を再構成する(記憶を小説化する)という方法は、先日読み終えた田中小実昌の『ポロポロ』の(あるいは後藤明生の)過去の記憶の物語化を執拗に避ける方法と対極的なように思えたのだけれど、どちらも語り手の内面に踏み込んでいく点では同じで、実はそれほど差異はないのではないか、と思った。

追記
そうそう、ところで、

ちょうど日本人の玩具で、水を満たした瀬戸物の茶碗に小さな紙切れを浸すと、それまで区別のつかなかったその紙が、ちょっと水につけられただけでたちまち伸び広がり、ねじれ、色がつき、それぞれ形が異なって、はっきり花や家や人間だと分かるようになってゆくものがあるが(以下略)

というこの玩具ってなんだろう? どこかでそのようなものを見たことがあるようなないような。
アメリカという語は一度も出てこない(多分)のに、日本という語はこのあともう一度出てくるのが面白いところ。ジャポニスムって奴ですな。